やっぱり見えます。
やっぱり見えます。人の顔です。似た人を知っています。何を見ているのかと申しますと、天井の染みなのです。二十年以上前から、そこにあります。何度見たか知れません。やっぱり見えます。見ないつもりでも、見てしまいます。 よく考えれば、テレビも、映画も、写真も、絵も、パソコンのモニターも、「「それ」そのもの」ではないにもかかわらず、「それ」を見てしまうという錯覚を利用したものです。でも、それは意図的にそうなっているのであって、不意に、出あってしまうという体験をしているわけではありません。 それなのに、出あってしまう。出あってしまった。出あってしまうだろう。出あってしまうかもしれない。そんなことがあります。人をやっている以上は、あります。何かに何かを見る。これって、人である限り仕方がないみたいです。ネガティブに、つまりマイナス思考で、とらえることはないのです。 たとえ、不意をつかれたとしても、正々堂々と出あってしまえばいいのです。 そういう体験の恥ずかしさや後ろめたさやかっこ悪さを、薄めるためのいい言葉、つまりおまじないの言葉があります。それは「あらわれる」です。 「○○が見える・ 見えた」の代わりに「○○があらわれる・あらわれた」と、するだけでいいのです。「見える・見えた」が自分の責任なのかどうかは、誰にも分からないと思いますが、とにかく責任を転嫁するのです。それだけで、だいぶ、気が楽になりませんか? このように言葉は、ときとして人を助けたり救ってくれます。あの天井の染みのなかに見える人の顔は、「あらわれている」のだ。そう思うと、気持ちがいくぶん、やわらぎます。 ところが、同時にぞくっとくるのです。こっちに落ち度はない。責任はない。そこまではいいです。じゃあ、なぜ? でも、なぜ? なぜ、「あらわれる」の? 責任だか何だか分からないものを転嫁した、つまり押し付けたのはいいけれど、その「押し付けられたもの」 あるいは「押し付けたこと」が気になってくるのです。なぜ? どうしてなの? 何が起こって、そうなっているわけ? こういうことは、深く考えることではなさそうです。考えてみても、いいことなど、これっぽっちもないみたいだからです。だから、安心してください。あなたに責任はありません。 あらわれるのです。