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人に動物を感じるとき

人に動物を感じるとき(連想でつなぐ) 星野廉 2023年4月2日 08:40 (※この記事は連想でつなげた長い記事なので、見出しごとに独立してお読みいただくこともできます。) 目次 動物、生物、宇宙人 知覚、五感、距離 痛みを推しはかる 身びいき、擬人 作意、作為 意識的な擬人、無意識の擬人、深層的な擬人 鏡の中の話だと意識する、意識しない ひと休み 恥ずかしさ プライベートな行為、プライベートな仕草 においを嗅ぐ、鏡を覗きこむ テリトリーをおかす 近さ、親しみ 食う、喰う、食べる 動物、生物、宇宙人  動物園に人はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは人が自分たちを動物と見なしてないからでしょう。  生き物や生物やいきものはどうでしょう。人は自分たちを生き物や生物やいきものと考えているのでしょうか。もちろん、これは日本語の語感の問題ですけど。  宇宙人はどうでしょう。地球も宇宙の一部であるはずです。 知覚、五感、距離  目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――この中で私がいちばん動物を感じるのは「嗅ぐ」です。人のことです。  視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。  触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。 痛みを推しはかる  一方的に、相手に知られずに、見る、聞く、嗅ぐ場合は多々あります。 【※あとで触れますが、この辺のことにとても意識的だった作家は川端康成だと思います。とりわけ『雪国』(ソフトでマイルドです)と『眠れる美女』『片腕』(ハードでワイルドです)です。】  「触れる・撫でる」と「味わう・食感を楽しむ」最中となると、もし相手に意識や意思があれば、されている相手は「されている」と感じているでしょう。  「撫でる・撫でられる」は想像しやすいですが、「食べる・食べられる」を想像するには心の痛みを感じます。たとえ、その行為の前に「いただきます」と手を合わせたとしてもです。  あれは相手の魂を鎮めるためではなく、自分の気持ちを鎮めるための儀式だと私は受けとめています。  相手が自分に「うつってくる(入ってくる)」と感じて

夜になると「何か」を手なずけようとする

 人は長方形に囲まれて生きている気がします。生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。  人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。  人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。  そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。      *  長方形というと、ひとりでいる場所をイメージしてしまいます。上で述べた長方形の場所や「容れ物」ではひとりでいない場合のほうが多いのにです。たぶん、多くの人に囲まれていても人はひとりでいるという気持ちが強くあるからだと思います。  寝床、ベッド、布団、病床、シーツ、ストレッチャー、トイレの個室、棺桶、お墓、遺影。こうした場や容れ物にひとりでいる人が頭に浮かびます。誰かに似ていますが、想像の中にあるその顔は見えません。見たくないのかもしれません。  意識だけとか目だけになって道を進むさまが、寝入り際によく浮かぶのは車に乗っている時を思いだしているのかもしれません。道は、たとえそれが獣道であっても、舗装された道路であっても長方形を延長していったものに見えます。  テレビにしろ、映画にしろ、液晶画面にしろ、本にしろ、車窓にしろ、枠があり、その枠はほぼ横に長い四角に見えます。視界もほぼ横長の楕円形に思えます。その横に長い長方形の枠のある光景を見ながら、人は生きていく。そのあいだに枠を意識することはまれにしかない。  こういうのはこじつけなのでしょうが、こじつけというAをBに置き換える作業が、視覚や知覚全般の根底にあり、たとえば言語活動や広義の比喩や印象やイメージという形で、人においてあらわれているのだと思われます。目だけでなく、また意識だけでなく、魂の働きだという気もします。無媒介的に世界と触れあうことができない以上、人間は置き換えるという形で遠隔操作するほかないのです。

夜の思考、昼の思考

 ここはどこなのでしょう。  考えれば考えるほど不明になります。PCの前にいる、家の居間にいる、住所を番地まで付けて口にしてみる、地図で見当をつけてみる。いまは、住所をグーグルで検索するとストリートビューでこの家の様子が映像として出てきます。  ストリートビューは面白いですが、考えようによっては怖いですね。いろいろな意味で恐ろしくなります。画像を操作していると、写真が地図になったり、その縮尺を自由に変えたり、さらに拡大すると上空から見た写真になります。  世界地図や衛星写真や地球儀で、ここは、このあたりかなとポールペンの先でこつこつと突いてみる。ここは日本国にある〇県〇市〇町〇番地。ここは地球。ここは太陽系。ここは銀河。ここは宇宙。  〇県、日本国、地球、太陽系、銀河、宇宙――広くて大きな「そういうもの」は、言葉でしか知らない「何か」であるはずなのに、その存在が事実だと言われている。その「何か」をどんどん「広く」「大きく」していくと、それにつれて抽象度が高くなる気がします。  広く大きくなるほど、体感では容易に確認できないものになり、どんどん遠ざかっていくのです。  恥ずかしい話なのですが、いまだに天動説を信じています。  子どもの頃には太陽や月や星が動いていると信じて疑いませんでした。まして地球が丸いなんて思いも考えもしませんでした。  いまはどうかといえば、揺れています。その時の気分で地動説と天動説のあいだを行ったり来たりしているのです。地球が丸くて太陽の周りをまわっているという話は学校で習って知っていますが、どうしても地動説が体感できません。そんなわけで、二つの説のあいだでいまも揺れています。  そもそも「太陽」はぴんときません。お日さまです。「地球」は地が丸いという意味ですけど、これもしっくりしません。せいぜい地面ですが、これだと平ぺったい感じがしませんか。  お日さまが、東から上り、西に沈む。夜のうちに、地面の反対側をまわるような形で、地球の周りをまわっている。そう感じられます。これが体感というものなのでしょう。  いや、本当は地球のほうが太陽の周りをまわっているのだ。そう学校で習ったのだから、そうなのだ。うんうん。これが昼の思考です。恥とか外聞とか世間体に縛られているのが、昼間の自分です。  夜になると、まして夜中に目が覚めたときには、恥も外聞も世間体も

知ではなく痴にうながされて書く

  目次 ふれる、ゆれる 月に触れる 月に吠える ふれる、触れる、振れる 知ではなく痴にうながされて書く ふれる、ゆれる  月明かりのともる道を、ふたりの連れと歩む。空に浮かぶ丸い影、地にぽとりと落ちた影。一歩一歩、一刻一刻、ともに歩む。  「明かり」につられて「ともる」が来て、人が歩くにつれて付いてくるように見える「月(つき)」の連想で「連れ(つれ)」とつながり、「ふたり」を受けて、念を押すように月の「影(姿)」と地面に映る自分の「影」が言及され、ふたりの「とも(友・朋・共)」との歩みが「一歩一歩」で空間的な推移として、「一刻一刻」で時の刻みとして触れられる。  こんなふうに音と文字とイメージで遊べる言葉の世界が好きです。英語では無理ですから日本語の世界と言うべきでしょう。というか、それぞれの言語にそれぞれの多義語があって、そのなかで言葉を掛ける遊びがあるにちがいありません。  言葉の世界と現実の世界と思いの世界は、ぴったり重なるようには一致しないが、それにもかかわらず「擦れ違う」というかたちで、触れるか触れないかの、ぎりぎりの出会いがある。そんな気がします。  触れそうになっただけなのに触れた心もちになる。相手に触れてはいないのに思わず、こちらが振れてしまう。これを押しすすめれば、気が触れることになるのかもしれません。  「気が触れる」の「触れる」は「狂れる」とも書きます。狂うのです。振れが振れを、触れが触れを、揺れが揺れをさそう。狂ったようにばらばらにふれていたのが、狂ったようにみんなでいっしょにふれるようになる。いずれにせよ、ふれているのです。 月に触れる  月は英語ではふつう moon 、フランス語では lune ですが、英語にはラテン語で月を意味する luna から来たらしい lunacy や lunatic があります。それぞれ「狂気」、「狂気の」という意味になります。  私は掛け詞のように見えたり響く語源が好きです。字面や音を楽しむわけですが、これを「正しい」知識としてとらえて、まるでたった一つの正解のように解する気にはなれません。  そんなわけで、国語辞典の語源の欄にある「〇〇が訛って」とか「〇〇か」とか「諸説あり」という自信なげな記述が好きです。  「訛って(要するに、口が回らなかった)」「転じて(要するに、間違えた)」「と解釈して(要するに、勘

直線上で迷う

 初めて水面や鏡を見たときの、人類という意味での人や個人としての人のようすを想像すると軽い目まいを覚えます。びっくりしたでしょうね。ぶったまげたでしょうね。鏡像に慣れ親しんでいるいまの人や自分の想像をこえた体験だといえそうです。  その体験を「見る」という言葉で片づけていいのか、はなはだ疑問です。本当に「見た」のでしょうか? そもそも「見る」余裕などあったのでしょうか? 寝入り際にとりとめのない思いにふけるとき、そういう空想をよくするのですが、寝際ですからぜんぜん論理的な思考(お気づきのとおり、私のもっとも苦手とするもので自分にはないに等しいと感じています)は働いていないもようです。      *  昨夜は写真機や写真が発明されて間もないころの人たちがどんな反応をしたかなんて考えていました。真剣に考えると目がさえてしまうので、肩の力を抜いて思いをめぐらしていたのですが、次のようなことを思いました。  ひょっとして、枠に気づいたのではないか、と。  古い写真機のファインダーに相当する部分から覗きこんで、被写体のうつり――これは「写る」なのか「映る」なのか分かりません、寝入り際には辞書や用字用語集はつかえないのです――ぐあいを確認するさいに、枠があることに気づいたのではないでしょうか。現像した写真にも枠がありますね。  絵も洞窟の壁や地面に描いていたときには、枠は意識しなかったと想像しますが、板や布や紙のたぐいのうえに描くとなると、端っこがあるわけで、それが枠になりそうです。ああ、視界には枠があるんだ。そういう言葉で思ったかどうかは知るよしもありませんが、自分の目の視界や視野というものを感じた、つまり初めて意識したのではないでしょうか。      *  いま自宅の居間にいる私は自分の視界を意識しようと努めているのですが、その視界がどんな形をしているのか、さっぱり見当がつきません。みなさんはどうですか? 横長であるという気はしますが、長方形だという感じはありません。横に長い楕円形みたいにも感じられます。  そう考えると、映画やテレビやPCの画面に似ていますね。本は縦長ですが、見開くと横に長いようです。昔の巻物もそうでした。人の頭というか意識の中には長方形の枠があるのではないかと疑りたくなります。それをなぞるというか真似て、物をつくっているのではないか。私たちは長方形に囲ま