夜の思考、昼の思考
ここはどこなのでしょう。
考えれば考えるほど不明になります。PCの前にいる、家の居間にいる、住所を番地まで付けて口にしてみる、地図で見当をつけてみる。いまは、住所をグーグルで検索するとストリートビューでこの家の様子が映像として出てきます。
ストリートビューは面白いですが、考えようによっては怖いですね。いろいろな意味で恐ろしくなります。画像を操作していると、写真が地図になったり、その縮尺を自由に変えたり、さらに拡大すると上空から見た写真になります。
世界地図や衛星写真や地球儀で、ここは、このあたりかなとポールペンの先でこつこつと突いてみる。ここは日本国にある〇県〇市〇町〇番地。ここは地球。ここは太陽系。ここは銀河。ここは宇宙。
〇県、日本国、地球、太陽系、銀河、宇宙――広くて大きな「そういうもの」は、言葉でしか知らない「何か」であるはずなのに、その存在が事実だと言われている。その「何か」をどんどん「広く」「大きく」していくと、それにつれて抽象度が高くなる気がします。
広く大きくなるほど、体感では容易に確認できないものになり、どんどん遠ざかっていくのです。
恥ずかしい話なのですが、いまだに天動説を信じています。
子どもの頃には太陽や月や星が動いていると信じて疑いませんでした。まして地球が丸いなんて思いも考えもしませんでした。
いまはどうかといえば、揺れています。その時の気分で地動説と天動説のあいだを行ったり来たりしているのです。地球が丸くて太陽の周りをまわっているという話は学校で習って知っていますが、どうしても地動説が体感できません。そんなわけで、二つの説のあいだでいまも揺れています。
そもそも「太陽」はぴんときません。お日さまです。「地球」は地が丸いという意味ですけど、これもしっくりしません。せいぜい地面ですが、これだと平ぺったい感じがしませんか。
お日さまが、東から上り、西に沈む。夜のうちに、地面の反対側をまわるような形で、地球の周りをまわっている。そう感じられます。これが体感というものなのでしょう。
いや、本当は地球のほうが太陽の周りをまわっているのだ。そう学校で習ったのだから、そうなのだ。うんうん。これが昼の思考です。恥とか外聞とか世間体に縛られているのが、昼間の自分です。
夜になると、まして夜中に目が覚めたときには、恥も外聞も世間体も気にしない境地にいるので、堂々と天動説を信奉しています。これが夜の思考です。
人は子ども時代に天動説を信奉し、やがて地動説に改宗するが、その後も密かに天動説の信者でありつづけるとも言えそうです。
さらに言うと、人は夜には子どもになります。夜は体感が人を支配するからでしょう。えっ? 「退行」ですか? そうかもしれません。いや、そうにちがいありません。
寝るにはまだ早そうです。
#夜 #昼 #天動説 #地動説