ごみ
ごみは人工物であり、ごみは人にとってごみとして存在する。赤瀬川原平が、そんな意味のことを言ったらしい。うろ覚えの言葉なのだが私なりに個人の意見として敷衍してみよう。
人間がごみなのだ。言葉とその意味に取り憑かれた人間が、消えていく言葉とその意味を形にし、さらには物体にしようとする行為が、「残す」である。人の残す行為と人の残した物、それを保存とか継承とか伝統とか文明とか文化とか遺跡とか遺産とか財産というふうに、人は呼んでいるわけだが、要するにごみだ。
ただし、これをごみと見なすことは人間的な心理ではないだろう。ましてそれをこうやって言葉にしたり、拡散するのは非人間的な行為だと人の端くれとして思う。タブーとまでは言わないが、やってはいけないことだという気がする。
でも、言わずにはいられない。人は自分が死んだあとも何かを残そうとする。そのために生きているように見える。子孫や家や土地や財産という目に見えたり触ったりできるものだけではなく、名前や業績や作品や言動を記した文書として、そしていまでは音声や映像として残そうとする。
こうした人の行為を責める人はほとんどいないにちがいない。自分を否定することになるからだ。そもそも残そうとする先人の意志があったからこそ生きている自分を否定するだけでなく、自分と自分の仲間と自分の親と祖先を糾弾することにもなりかねない。
でも、ごみなのだ。この星とこの星に住む生きものたち、そしてたぶん宇宙にとっては、人が残している物は、廃棄物どころか、不用物であり生きものとこの星に害をおよぼす危険物であるにちがいない。人のやっていることは不自然どころか反自然なのである。そこがサルとの決定的な違いだ。
ごみ学というものがあれば、人がこれまでやってきたことといまもやっていることの総決算になるだろう。とはいえ、ごみを見る人の目には死角がある。
人は宇宙にも自分たちと同じような「知性を持った」生命体がいると信じ、コンタクトを取ろうとしてごみを宇宙に放出したり発信しているらしいが、それは宇宙に人以外のごみがいると信じているからにほかならない。
しかも自分たちは例外であり、そのごみによってごみ扱いされないだろうという楽観に立っている。きわめて人間的な発想である。ごみとは人にしか見えないものでありながら、ごみにはごみは見えない。ごみが言っているのだから間違いない。