知ではなく痴にうながされて書く

 


目次
ふれる、ゆれる
月に触れる
月に吠える
ふれる、触れる、振れる
知ではなく痴にうながされて書く



ふれる、ゆれる



 月明かりのともる道を、ふたりの連れと歩む。空に浮かぶ丸い影、地にぽとりと落ちた影。一歩一歩、一刻一刻、ともに歩む。


 「明かり」につられて「ともる」が来て、人が歩くにつれて付いてくるように見える「月(つき)」の連想で「連れ(つれ)」とつながり、「ふたり」を受けて、念を押すように月の「影(姿)」と地面に映る自分の「影」が言及され、ふたりの「とも(友・朋・共)」との歩みが「一歩一歩」で空間的な推移として、「一刻一刻」で時の刻みとして触れられる。


 こんなふうに音と文字とイメージで遊べる言葉の世界が好きです。英語では無理ですから日本語の世界と言うべきでしょう。というか、それぞれの言語にそれぞれの多義語があって、そのなかで言葉を掛ける遊びがあるにちがいありません。


 言葉の世界と現実の世界と思いの世界は、ぴったり重なるようには一致しないが、それにもかかわらず「擦れ違う」というかたちで、触れるか触れないかの、ぎりぎりの出会いがある。そんな気がします。


 触れそうになっただけなのに触れた心もちになる。相手に触れてはいないのに思わず、こちらが振れてしまう。これを押しすすめれば、気が触れることになるのかもしれません。


 「気が触れる」の「触れる」は「狂れる」とも書きます。狂うのです。振れが振れを、触れが触れを、揺れが揺れをさそう。狂ったようにばらばらにふれていたのが、狂ったようにみんなでいっしょにふれるようになる。いずれにせよ、ふれているのです。



月に触れる


 月は英語ではふつう moon 、フランス語では lune ですが、英語にはラテン語で月を意味する luna から来たらしい lunacy や lunatic があります。それぞれ「狂気」、「狂気の」という意味になります。


 私は掛け詞のように見えたり響く語源が好きです。字面や音を楽しむわけですが、これを「正しい」知識としてとらえて、まるでたった一つの正解のように解する気にはなれません。


 そんなわけで、国語辞典の語源の欄にある「〇〇が訛って」とか「〇〇か」とか「諸説あり」という自信なげな記述が好きです。


 「訛って(要するに、口が回らなかった)」「転じて(要するに、間違えた)」「と解釈して(要するに、勘違いした)」「字を当てて(要するに、当て字であり感字)」というふうに受けとめています。


 映り、写し間違え、移る。言葉は、そうやって移り変わってきたようです。


 私は、求める解よりも迷う快を選びます。語源の解を知る喜びはタイムマシンが発明されるまで取っておきましょう。怪のままでじゅうぶんに快なのです。いまは、起源なき引用であり、現物や実物なき複製である声と文字を相手に遊んでもらおうと考えています。


月に吠える


 それにしても、なんで月が狂気とつながるのでしょう。調べて解を求めるのではなく、迷って楽しんでみます。答えは出なくてかまいません。私には出ないほうがいいのです。「わかる」の醍醐味がゴールではなくプロセスであるように、迷う過程が楽しいのです。


 満月や月というと狂気を連想する人は多いようです。やはり、lunaticという言葉の影響でしょうか。full moon(満月) と fool moon という言葉遊びを思いだしました。満月の夜に〇〇が多い――といったたぐいの都市伝説も思いだします。こうこうと輝く満月を見ると、人も吠えたくなるのかもしれません。



 「狂う」がらみでいうと、正気のサタデーナイ(沙汰でない)トという駄洒落を聞いた覚えがあります。確かに、夜になると人は程度の差はあれ、ふれます。とりわけ「ハレ」っぽい週末には。



 こうした、きわめて多くの人、あるいはそこそこ多くの人に共有されたイメージがある場合には、詩や小説や音楽や映画やテレビドラマで、似たようなイメージが繰りかえされ、さらにイメージが拡散されていきます。


 音楽と言えば、バンド名の LUNA SEA が頭に浮かびましたが、これは上で述べた英語の lunacy と同じ発音になるみたいです。


 海の月、月の海、狂気――。こう並べると、なんだか綺麗でうっとします。「月に吠える」というフレーズを連想してしまいました。月に触れたのでしょうか。


 言葉には辞書に載っている語義だけでなく、集団や共同体に共有されているイメージがあったり、おそらく一人だけにしかいだかれない私的なイメージがあります。後者は誰かに話せば「あほか」と言われるのがオチで――話せば話すほど正気の沙汰でないと人に思われます――、他人に分かってもらう必要のないものですけど、だからこそ大切なのです。


 もしもしカメよカメさんよ。この歌詞を耳にしたり口にするたびに、月でカメさんに電話をしているウサギさんの姿が浮かぶのですが、こども時代からいだいているこの心象を、私はとても愛おしく思っています。


ふれる、触れる、振れる


 「気がふれる」という言い回しが気にかかります。この言い回しで、「琴線に触れる」というフレーズを連想しました。


 琴の金色の線(糸・弦)に何かが触れて、線が振れ、空気が震える。そんな光景が目に浮かびます。金色の線から金色の空気の波がつぎつぎと円を描いて広がっていくのです。


 薄く弱いながら艶のある光を感じて見上げると、弦月半月が濃い紫の空に見えます。月は、金と銀のどちらにも見える微かな色をしています。あ、ウサギさんだ――。そう思ったたとんに、夢ゆめうつつから覚めます。または別の夢ゆめうつつへとうつります。さめてもさめても夢うつつなのです。


 こういうのを「狂(ふ)れる」というのでしょう。少なくとも、この「ふれる、ふる、ふるえる」という言葉とそれが喚起する上のイメージは、私には美しいものです。


 ところで、「触れる」と「触れられる」は同時に起こっているはずです。視覚や聴覚や嗅覚や味覚と異なり、触覚は双方的なものです。それだけに五感のうちで最も始原的な体感に思えます。知とはほど遠い感じ分けなのです。「触れる」は正確には「触れ合う」と言うべきかもしれません。


 人同士の――相互的な――触れ合いの話に絞ると、体が二つない限り、人はどちらか一方なのですから、相手のことは想像するしかありません。


 つまり、相手にとっての「触れる、同時に触れられる」は、体感できないという意味で抽象になるわけです。他者を前にして(相手にして)、人は想像し抽象するしかないということでしょうか。想像の「像」と抽象の「象」は影です。「他者を相手にする」とは影を相手にするという意味での「触れ合い」だと考えられます。


 自分ではない「何か」や「誰か」、自分ではない相手――人であっても、人以外の生き物であっても、無生物であっても、なんらかの現象であっても――を思いやるとき、人は「それ」に触れた気持ちになるという意味で、触れる(狂れる)のではないでしょうか。触れるは狂れる。


知ではなく痴にうながされて書く


 月の影を見る。星の影を見る。


 水面に映った星や月の姿ならじっさいに見た覚えがありますが、地面や壁に星や月の影が映っているさまは見たことがありません。でも、見たことはなくても思いえがくことはできます。


 強いて思いの中で描かなくても、月の影、星の影と唱えただけで、浮かんでくるのです。まだまだ月のひかりや星のあかりのさすさまは浮かんできません。


 ひかりやあかりという意味での影は、まだまだ私の中では知識でしかないようです。


     *


 暗い道に星の影が落ちている。青みを帯びた灰色の影がぽつぽつと点になって散らばっている。壁に大きな月の薄い影が映っている。このあいだ見たときにはまん丸だったのが、きょうはちょっと欠けている。


 現実にはありそうもありませんが、このように思いえがいたり思いうかべることなら楽にできます。星の影と月の影を、自分にとっての「文字どおり」に取っているわけです。


 天体の影といっても、現実にある日食や月食など「食(蝕)」の話ではありません。科学的事実とも呼ばれる、知識として学ぶ「食(蝕)」の話よりも、現実にはありえない、荒唐無稽であったりとりとめのない個人的な影のイメージのほうに、私はわくわくします。


 この「わくわく」がないと私は文章が書けません。学校で学習した地動説よりも、日々体感している天動説にわくわくを覚えると言えば、わかっていただけるでしょうか。私はこの感覚を夜の思考と呼んで大切にしています。これがあるから生きているようなものです。


 なお、私は地動説を否定しているわけではありません。そもそも否定できるほど知的な人間ではありません。



 このところ連続して投稿している記事は、どれも「知る」という「知」ではなく、「痴(し)れる」という意味での「痴」にうながされて書いています。きっと私は痴人なのでしょう。「痴人夢を説く」の痴人です。




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