新聞紙
自然界には名詞に相当するものがない。これを実感するためには「ごみ」という名詞について考えるといい。ごみは人工物だという考え方があるが、名詞も人工物にほかならないからだ。
朝配達されたものは新聞、読み終わると新聞紙。新聞紙はさらに古新聞と呼ばれるようになる。ごみとしてはできたてでありまだごみとは呼びにくい新聞紙も、古新聞になれば晴れてごみ扱いされる。
日本語が読めない人にとっては、コンビニで売られている新聞は新聞紙だろう。英語が得意ではない人にとっては、コンビニで日本語の新聞と並べられている英字新聞は新聞紙にちがいない。
新聞を読む習慣のない人にとっては、たとえそれが母語で書かれていていも、新聞紙なのかもしれない。まだ目を通してもいない新聞が新聞紙として扱われ、読む以外の目的で使われることは意外と多いのではないか。
まちがって同じ新聞が二部配達されたり、手違いにより売店で二部買ってしまった場合にも、一方は新聞紙として扱われるだろう。
新聞、新聞紙、古新聞。同じものであっても、時や場合や人によって見方が異なり、異なった呼び名で指ししめされる。それが名詞の本質なのだ。
いま二人の人がいて、その二人の前に新聞を印刷する工場で印刷された紙があるとすれば、その時点でその紙は新聞であったり新聞紙であったりする。
ごみも同じだ。ごみとは人にとってごみであったりなかったりする物であり、あるごみが別の人にとってはごみではなかったり、時間の経過やそれが置かれた場所によってもごみと呼ばれたりごみ以外の呼び名で指されたりすることはざらにあるだろう。
ごみはレッテルであり、名詞の本質はぺたぺた貼ることにある。何に貼っているのかは人には分らない。