夜になると「何か」を手なずけようとする
人は長方形に囲まれて生きている気がします。生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。
人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。
人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。
そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。
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長方形というと、ひとりでいる場所をイメージしてしまいます。上で述べた長方形の場所や「容れ物」ではひとりでいない場合のほうが多いのにです。たぶん、多くの人に囲まれていても人はひとりでいるという気持ちが強くあるからだと思います。
寝床、ベッド、布団、病床、シーツ、ストレッチャー、トイレの個室、棺桶、お墓、遺影。こうした場や容れ物にひとりでいる人が頭に浮かびます。誰かに似ていますが、想像の中にあるその顔は見えません。見たくないのかもしれません。
意識だけとか目だけになって道を進むさまが、寝入り際によく浮かぶのは車に乗っている時を思いだしているのかもしれません。道は、たとえそれが獣道であっても、舗装された道路であっても長方形を延長していったものに見えます。
テレビにしろ、映画にしろ、液晶画面にしろ、本にしろ、車窓にしろ、枠があり、その枠はほぼ横に長い四角に見えます。視界もほぼ横長の楕円形に思えます。その横に長い長方形の枠のある光景を見ながら、人は生きていく。そのあいだに枠を意識することはまれにしかない。
こういうのはこじつけなのでしょうが、こじつけというAをBに置き換える作業が、視覚や知覚全般の根底にあり、たとえば言語活動や広義の比喩や印象やイメージという形で、人においてあらわれているのだと思われます。目だけでなく、また意識だけでなく、魂の働きだという気もします。無媒介的に世界と触れあうことができない以上、人間は置き換えるという形で遠隔操作するほかないのです。
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外に出て、海、山、川、草、木に目を転じると意外と長方形や四角がないのに気づきます。長方形が見えるなあと思うと、たいてい人がつくったものなのです。そうしたものには角があるのです。
やっぱり長方形は人の中にあるのではないかとますます思えてきます。「川は道と同じで長方形を延長していったものに見えるよね」と言ったあなたに四角い座布団一枚。
空を見ても長方形は見当たりません。楕円形っぽい長方形にも見える視界の枠が感じられるだけ。お日さまも雲たちにも、お月さまも星たちにも、角というものがない。
自然の風景を窓や写真やスクリーンや画面という枠の中でしか見なくなってきていることを寂しく思います。
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こじつける。こじつけ。
「何か」を「何か」に置き換えないと人は壊れしまうのでしょう。前者の「何か」はあえて言うなら恐怖であり不安でしょうが、本来は言葉にならないはずのものです。後者の「何か」は言葉に近い「何か」であり、人にとっては親しいものにちがいありません。
名づけられないものを手なずける。こうした仕組みがあることに感謝するしかない、そんな敬虔に似た心もちになります。
そう、感謝すべきなのでしょう。生きているとこの仕組みに不調が起きる場合がままあるからです。そうなると人生はつらく苦しいものになりますが、年を取ったいま、それが身にしみるのです。
目をつむると、とりとめのない模様や景色に置き換わった何かが浮かんでいます。それが何かなんて考えないでその光景に染まっていくと心が安らぎます。名づけられない「何か」にはそうした効用もあるようです。有り難いことに。
「何か」ではないもの――こう名づけた瞬間にもう「何か」なのかもしれませんが――と「何か」のあいだで、私はいま「何か」を、こうやって言葉とイメージに置き換え、手なずけ、飼いならそうとしているにちがいありません。
きっと怖いからです。不安だからです。間違いありません。いつか必ず来るはずの「何か」に備えて心の準備をしているのかもしれません。
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