直線上で迷う
初めて水面や鏡を見たときの、人類という意味での人や個人としての人のようすを想像すると軽い目まいを覚えます。びっくりしたでしょうね。ぶったまげたでしょうね。鏡像に慣れ親しんでいるいまの人や自分の想像をこえた体験だといえそうです。
その体験を「見る」という言葉で片づけていいのか、はなはだ疑問です。本当に「見た」のでしょうか? そもそも「見る」余裕などあったのでしょうか? 寝入り際にとりとめのない思いにふけるとき、そういう空想をよくするのですが、寝際ですからぜんぜん論理的な思考(お気づきのとおり、私のもっとも苦手とするもので自分にはないに等しいと感じています)は働いていないもようです。
*
昨夜は写真機や写真が発明されて間もないころの人たちがどんな反応をしたかなんて考えていました。真剣に考えると目がさえてしまうので、肩の力を抜いて思いをめぐらしていたのですが、次のようなことを思いました。
ひょっとして、枠に気づいたのではないか、と。
古い写真機のファインダーに相当する部分から覗きこんで、被写体のうつり――これは「写る」なのか「映る」なのか分かりません、寝入り際には辞書や用字用語集はつかえないのです――ぐあいを確認するさいに、枠があることに気づいたのではないでしょうか。現像した写真にも枠がありますね。
絵も洞窟の壁や地面に描いていたときには、枠は意識しなかったと想像しますが、板や布や紙のたぐいのうえに描くとなると、端っこがあるわけで、それが枠になりそうです。ああ、視界には枠があるんだ。そういう言葉で思ったかどうかは知るよしもありませんが、自分の目の視界や視野というものを感じた、つまり初めて意識したのではないでしょうか。
*
いま自宅の居間にいる私は自分の視界を意識しようと努めているのですが、その視界がどんな形をしているのか、さっぱり見当がつきません。みなさんはどうですか? 横長であるという気はしますが、長方形だという感じはありません。横に長い楕円形みたいにも感じられます。
そう考えると、映画やテレビやPCの画面に似ていますね。本は縦長ですが、見開くと横に長いようです。昔の巻物もそうでした。人の頭というか意識の中には長方形の枠があるのではないかと疑りたくなります。それをなぞるというか真似て、物をつくっているのではないか。私たちは長方形に囲まれていませんか?
生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。
人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。
そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。
*
人は自分が「どう見ているか」とか、自分に「どう見えているか」が分からないのではないでしょうか。たぶんいまも分からないし、きっと昔々も分かっていなかった、のでは?
「見るためのもの」(視覚を補うもの)をつくって初めて、「自分がどう見ているか」とか、「自分にどう見えているか」に気づく。そんな気がしてなりません。ただし「気づいた」けれど、「分からない」は続いているのです。
鏡、影、落書き、絵画、写真、映画(影や幻影の進化したもの)、テレビ、動画、VR。これほど人が「見る」に取り憑かれているのは、じつはいまだに「見えていない」からであり、その不十分な「見る」を補助するような物や仕組みや枠組みをつくるたびに、思いがけない、つまり想定外の「見る」や「見える」を見てしまい、驚き、ぶったまげ、何かにはっと気づく。そんなことを繰りかえしてきた気がします。
そう考えると、「見る」というのは「とりあえずつくった言葉」であり、その「見る」について、人は何も分かっていないのではないかというふうに思えます。「見る」「見える」という言葉をつくったから、「見る」「見える」んだ、うん、そうだ、と「決めた」とも言えそうです。
なにしろ、人は「〇△X」という言葉をつくって、その次に「〇△Xとは何か?」と問い、思い悩む生物なのです。考えれば考えるほど、自分に当てはまります。いまもやっていますね。
*
ここまでの文章を読みかえしましたが、なにぶんにも、寝入り際の思いを言葉にしたものなので、論理的ではないし――やっぱりねという感じ、この記事(小説のつもりなのですけど)のタイトルをご覧ください、正気の沙汰デーナイト――、とりとめがなく、飛躍も多いのに気づきます。じっさいには、もっととりとめのないものだった気がします。
イメージとしては長方形のお化けみたいな細長い道を迷いながら歩いているような――直線は迷路だという意味のことを書いたのはアラン・ロブ=グリエについて論じていた蓮實重彦だったか――、えんえんと続く長方形の巻物とか、どんどんスクロールしながら読みすすむ液晶の超細長の画面を閲覧しているような気分なのです。
やはり直線をたどっていても右往左往はあるし停滞はあるし迂回はあるし迷います。直線をたどっているつもりとか直線上にいるつもりがそうではないというのは、日常的に経験していることなのかもしれません。本を読んで学んで嬉々として人に報告するような話ではないという意味です。学ぶのではなく気づくたぐいのものなのでしょう。
しかも、この気づきはぼーっとしているときに誰でも得られる気がします。そして忘れるのです。その繰り返し……。知っている必要などないと体が知っているのかも知れません。
知というよりも痴、知るというより痴れる、知れるではなく。かつては知ると痴れるが同じだったなんて、しれっとしたしたり顔で言うつもりはなく、いまも知るは痴れると同居している気がします。知、痴、稚、恥。自分を基準にして人類を語るようなことを言って、ごめんなさい。この種のことについて観察できる人類が自分しかいないのです。
直線と四角だらけの四角い乗り物に乗って目の先だけは直線に見える四角くない世界という迷路をうろちょろする。直線と四角だらけの四角い建物の四角い部屋にいて直線と四角からなる世界を思考する。直線と四角からなり、四角い枠のある、窓、紙、ノート、書物、端末の画面から世界を見つめる。自分の中と外とが角と直線で重なるかに思える。
きっと直線も四角も抽象なのでしょう。四角の中にいて直線に沿って進みながら、または運ばれながら迷う。あなたも、私も……。話が堂々めぐりになってきました。やはり、ここも(ここって、どこ?)角のある枠の中のようです。枠の中にいると思うことで安心して眠れる――ようやく眠れそうです。