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   この記事集は、電子書籍「夜の思考」( https://puboo.jp/book/135035 )に移行しました。

人に動物を感じるとき

人に動物を感じるとき(連想でつなぐ) 星野廉 2023年4月2日 08:40 (※この記事は連想でつなげた長い記事なので、見出しごとに独立してお読みいただくこともできます。) 目次 動物、生物、宇宙人 知覚、五感、距離 痛みを推しはかる 身びいき、擬人 作意、作為 意識的な擬人、無意識の擬人、深層的な擬人 鏡の中の話だと意識する、意識しない ひと休み 恥ずかしさ プライベートな行為、プライベートな仕草 においを嗅ぐ、鏡を覗きこむ テリトリーをおかす 近さ、親しみ 食う、喰う、食べる 動物、生物、宇宙人  動物園に人はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは人が自分たちを動物と見なしてないからでしょう。  生き物や生物やいきものはどうでしょう。人は自分たちを生き物や生物やいきものと考えているのでしょうか。もちろん、これは日本語の語感の問題ですけど。  宇宙人はどうでしょう。地球も宇宙の一部であるはずです。 知覚、五感、距離  目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――この中で私がいちばん動物を感じるのは「嗅ぐ」です。人のことです。  視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。  触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。 痛みを推しはかる  一方的に、相手に知られずに、見る、聞く、嗅ぐ場合は多々あります。 【※あとで触れますが、この辺のことにとても意識的だった作家は川端康成だと思います。とりわけ『雪国』(ソフトでマイルドです)と『眠れる美女』『片腕』(ハードでワイルドです)です。】  「触れる・撫でる」と「味わう・食感を楽しむ」最中となると、もし相手に意識や意思があれば、されている相手は「されている」と感じているでしょう。  「撫でる・撫でられる」は想像しやすいですが、「食べる・食べられる」を想像するには心の痛みを感じます。たとえ、その行為の前に「いただきます」と手を合わせたとしてもです。  あれは相手の魂を鎮めるためではなく、自分の気持ちを鎮めるための儀式だと私は受けとめています。  相手が自分に「うつってくる(入ってくる)」と感じて...

夜になると「何か」を手なずけようとする

 人は長方形に囲まれて生きている気がします。生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。  人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。めちゃくちゃ言ってごめんなさい。  人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。  そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。      *  長方形というと、ひとりでいる場所をイメージしてしまいます。上で述べた長方形の場所や「容れ物」ではひとりでいない場合のほうが多いのにです。たぶん、多くの人に囲まれていても人はひとりでいるという気持ちが強くあるからだと思います。  寝床、ベッド、布団、病床、シーツ、ストレッチャー、トイレの個室、棺桶、お墓、遺影。こうした場や容れ物にひとりでいる人が頭に浮かびます。誰かに似ていますが、想像の中にあるその顔は見えません。見たくないのかもしれません。  意識だけとか目だけになって道を進むさまが、寝入り際によく浮かぶのは車に乗っている時を思いだしているのかもしれません。道は、たとえそれが獣道であっても、舗装された道路であっても長方形を延長していったものに見えます。  テレビにしろ、映画にしろ、液晶画面にしろ、本にしろ、車窓にしろ、枠があり、その枠はほぼ横に長い四角に見えます。視界もほぼ横長の楕円形に思えます。その横に長い長方形の枠のある光景を見ながら、人は生きていく。そのあいだに枠を意識することはまれにしかない。  こういうのはこじつけなのでしょうが、こじつけというAをBに置き換える作業が、視覚や知覚全般の根底にあり、たとえば言語活動や広義の比喩や印象やイメージという形で、人においてあらわれているのだと思われます。目だけでなく、また意識だけでなく、魂の働きだという気もします。無媒介的に世界と触れあうことができない以上、人間は置き換えるという形で遠隔操作するほかないのです。...

夜の思考、昼の思考

 ここはどこなのでしょう。  考えれば考えるほど不明になります。PCの前にいる、家の居間にいる、住所を番地まで付けて口にしてみる、地図で見当をつけてみる。いまは、住所をグーグルで検索するとストリートビューでこの家の様子が映像として出てきます。  ストリートビューは面白いですが、考えようによっては怖いですね。いろいろな意味で恐ろしくなります。画像を操作していると、写真が地図になったり、その縮尺を自由に変えたり、さらに拡大すると上空から見た写真になります。  世界地図や衛星写真や地球儀で、ここは、このあたりかなとポールペンの先でこつこつと突いてみる。ここは日本国にある〇県〇市〇町〇番地。ここは地球。ここは太陽系。ここは銀河。ここは宇宙。  〇県、日本国、地球、太陽系、銀河、宇宙――広くて大きな「そういうもの」は、言葉でしか知らない「何か」であるはずなのに、その存在が事実だと言われている。その「何か」をどんどん「広く」「大きく」していくと、それにつれて抽象度が高くなる気がします。  広く大きくなるほど、体感では容易に確認できないものになり、どんどん遠ざかっていくのです。  恥ずかしい話なのですが、いまだに天動説を信じています。  子どもの頃には太陽や月や星が動いていると信じて疑いませんでした。まして地球が丸いなんて思いも考えもしませんでした。  いまはどうかといえば、揺れています。その時の気分で地動説と天動説のあいだを行ったり来たりしているのです。地球が丸くて太陽の周りをまわっているという話は学校で習って知っていますが、どうしても地動説が体感できません。そんなわけで、二つの説のあいだでいまも揺れています。  そもそも「太陽」はぴんときません。お日さまです。「地球」は地が丸いという意味ですけど、これもしっくりしません。せいぜい地面ですが、これだと平ぺったい感じがしませんか。  お日さまが、東から上り、西に沈む。夜のうちに、地面の反対側をまわるような形で、地球の周りをまわっている。そう感じられます。これが体感というものなのでしょう。  いや、本当は地球のほうが太陽の周りをまわっているのだ。そう学校で習ったのだから、そうなのだ。うんうん。これが昼の思考です。恥とか外聞とか世間体に縛られているのが、昼間の自分です。  夜になると、まして夜中に目が覚めたときには、恥も外聞も世間体も...

知ではなく痴にうながされて書く

  目次 ふれる、ゆれる 月に触れる 月に吠える ふれる、触れる、振れる 知ではなく痴にうながされて書く ふれる、ゆれる  月明かりのともる道を、ふたりの連れと歩む。空に浮かぶ丸い影、地にぽとりと落ちた影。一歩一歩、一刻一刻、ともに歩む。  「明かり」につられて「ともる」が来て、人が歩くにつれて付いてくるように見える「月(つき)」の連想で「連れ(つれ)」とつながり、「ふたり」を受けて、念を押すように月の「影(姿)」と地面に映る自分の「影」が言及され、ふたりの「とも(友・朋・共)」との歩みが「一歩一歩」で空間的な推移として、「一刻一刻」で時の刻みとして触れられる。  こんなふうに音と文字とイメージで遊べる言葉の世界が好きです。英語では無理ですから日本語の世界と言うべきでしょう。というか、それぞれの言語にそれぞれの多義語があって、そのなかで言葉を掛ける遊びがあるにちがいありません。  言葉の世界と現実の世界と思いの世界は、ぴったり重なるようには一致しないが、それにもかかわらず「擦れ違う」というかたちで、触れるか触れないかの、ぎりぎりの出会いがある。そんな気がします。  触れそうになっただけなのに触れた心もちになる。相手に触れてはいないのに思わず、こちらが振れてしまう。これを押しすすめれば、気が触れることになるのかもしれません。  「気が触れる」の「触れる」は「狂れる」とも書きます。狂うのです。振れが振れを、触れが触れを、揺れが揺れをさそう。狂ったようにばらばらにふれていたのが、狂ったようにみんなでいっしょにふれるようになる。いずれにせよ、ふれているのです。 月に触れる  月は英語ではふつう moon 、フランス語では lune ですが、英語にはラテン語で月を意味する luna から来たらしい lunacy や lunatic があります。それぞれ「狂気」、「狂気の」という意味になります。  私は掛け詞のように見えたり響く語源が好きです。字面や音を楽しむわけですが、これを「正しい」知識としてとらえて、まるでたった一つの正解のように解する気にはなれません。  そんなわけで、国語辞典の語源の欄にある「〇〇が訛って」とか「〇〇か」とか「諸説あり」という自信なげな記述が好きです。  「訛って(要するに、口が回らなかった)」「転じて(要するに、間違えた)」「と解釈して(要す...

直線上で迷う

 初めて水面や鏡を見たときの、人類という意味での人や個人としての人のようすを想像すると軽い目まいを覚えます。びっくりしたでしょうね。ぶったまげたでしょうね。鏡像に慣れ親しんでいるいまの人や自分の想像をこえた体験だといえそうです。  その体験を「見る」という言葉で片づけていいのか、はなはだ疑問です。本当に「見た」のでしょうか? そもそも「見る」余裕などあったのでしょうか? 寝入り際にとりとめのない思いにふけるとき、そういう空想をよくするのですが、寝際ですからぜんぜん論理的な思考(お気づきのとおり、私のもっとも苦手とするもので自分にはないに等しいと感じています)は働いていないもようです。      *  昨夜は写真機や写真が発明されて間もないころの人たちがどんな反応をしたかなんて考えていました。真剣に考えると目がさえてしまうので、肩の力を抜いて思いをめぐらしていたのですが、次のようなことを思いました。  ひょっとして、枠に気づいたのではないか、と。  古い写真機のファインダーに相当する部分から覗きこんで、被写体のうつり――これは「写る」なのか「映る」なのか分かりません、寝入り際には辞書や用字用語集はつかえないのです――ぐあいを確認するさいに、枠があることに気づいたのではないでしょうか。現像した写真にも枠がありますね。  絵も洞窟の壁や地面に描いていたときには、枠は意識しなかったと想像しますが、板や布や紙のたぐいのうえに描くとなると、端っこがあるわけで、それが枠になりそうです。ああ、視界には枠があるんだ。そういう言葉で思ったかどうかは知るよしもありませんが、自分の目の視界や視野というものを感じた、つまり初めて意識したのではないでしょうか。      *  いま自宅の居間にいる私は自分の視界を意識しようと努めているのですが、その視界がどんな形をしているのか、さっぱり見当がつきません。みなさんはどうですか? 横長であるという気はしますが、長方形だという感じはありません。横に長い楕円形みたいにも感じられます。  そう考えると、映画やテレビやPCの画面に似ていますね。本は縦長ですが、見開くと横に長いようです。昔の巻物もそうでした。人の頭というか意識の中には長方形の枠があるのではないかと疑りたくなります。それをなぞるというか真似て、物をつくっているのではないか。私たちは長方形に囲ま...

正方形と長方形で悩む夜

 印象やイメージの話ですが、長方形や直方体は親しみやすくカジュアルに感じられ、正方形や立方体は正式というか格式張って感じられて身構える自分がいます。そもそも角(かど・かく)があるものは人がつくったから、そうなっている気がするのですが、角があるほうが測りやすく細工がしやすいのではないでしょうか。  家屋や建物一般が直線と四角で成りたっているのも、測りやすかったり、作業がしやすかったり、運びやすいからであり。建設とか建造とはそうした行為の繰りかえしであり組み合わせなのかもしれない。そんなふうに想像します。  もしそうであれば、うまくできているのですね。素人がひとりで勝手に納得。      *  四角四面なんて言い方は正方形を意識している気がするし、英語で正方形を意味する square には堅物という語義もあったりします。立方体の箱をかかえて電車の席についている人を思いうかべてください。その中身がすごく気になりませんか? まして白だったりすると……。一方で、赤と白と混じった箱なら笑みが浮かびそうです。  包装された直方体の箱をもらったと想像してみてください。文庫本くらいの大きさです。ふつうにわくわくしませんか? ふつうにうれしくありませんか? これがもう少し小さめの立方体の箱だったらどうでしょう? 「何だろう?」と身構えてしまいませんか? ちょっと怖い気もしませんか? すごく高価なものではないかと期待するかもしれません。  いずれにせよ、立方体だと大切なものが入っているようで緊張感が漂います。長方形や直方体は手や腕でかかえるのには持ち運びやすいですが、正方形や立方体は個人的にはやや持ちにくい気がします。この形の荷物を運ぶ人は大変でしょう。形は整ってきれいですが、人の体にはなじまない形状なのかもしれません。  たとえば、近所の道を歩いていて、宅配便の業者さんが立方体の箱を胸のあたりでかかえていたとします。二度見しませんか? あるいは、ピンポンとあなたの家のドアチャイムが鳴って、そこに立っている宅配便会社のお兄さんが立方体の箱を手にしていたとします。家族に届いた荷物なので、あなたは中身が分かりません。伝票に印鑑を押す、またはサインするときの手が小刻みに震えませんか?      *  あと、これまた個人的な意見で恐縮ですが、立方体の部屋は落ち着きません。縦横そして高さが同じ長さ...

VRで自分に会いにいったその帰りに

 写真機では長いあいだ自分を撮ることはできませんでした。簡単に撮れなかったというべきかもしれません。それがいまではできます。スマホのカメラで可能ですが、簡単というわけではないでしょう。誰もがけっこう苦労して撮っています。  いろいろテクニカルな問題があって苦労なさるのでしょうが、「こんなはずじゃない」とか「私はこんなふうじゃない」という不満が根っこにあって、スマホに付いているレンズを恨みつつ、撮る位置や光の具合を調節しているのではないでしょうか。  人は自分を自撮りで撮影し、その像をリアルタイムで見ることができるようになりましたが、それでも満足できていないもようです。がっかりしているからです。ちょっと違うんじゃない? こんなもの? これだけ? という感じです。  鏡や写真や動画で自分を見る行為は、失望感と隣り合わせなのです。ぜんぜん納得できていない。だから、毎日毎日、お化粧やエステや身だしなみに骨身を削るのです。  その裏というか根本には、自分に会ったことがない、つまり肉眼で自分を見たことがない、さらに言うなら誰もが自分には絶対に会えないという現実があります。  現実はもどかしくままならないのです。世界でいちばん気になる人を見たこともなければ、一生会えないのですから。         *  人が満足する形での究極の「自分を見る」とは、「別人として自分を見る」ではないでしょうか。自分が別人にならないかぎり、それが不可能だと分かっているので、失望感と不満は永遠に続くと思われます。「もっともっと」「もっと見たい」が延々と続くという意味です。  本当の自分の姿は、街ですれ違った見知らぬ人の目に映った自分だ。そんな意味のフレーズを古井由吉の文章で読んだ記憶があります。別人の目で見る自分ということでしょうね。いま考えると分かる気がします。 「光学的に見える」だけでは「本当の見る」ではないとも言えるかもしれませんが、この「本当の見る」はおそらく幻想でしょう。知覚に限界のある人間にはありえないという意味で強迫観念であり、抽象にちがいありません。  人の裸眼と肉眼は、無媒介的に世界を見る能力ではありません。しかも、どんな器具や器械や機械をつかって見たとしても、最終的には人はその映像を裸眼で印象として見るしかないのです。  ゆがめて、まばらでまだらに、しかもぼやけて見ているとも言えるで...

あやしい動きをするもの

 UFOは空を飛ぶわけの分からないものを指しますが、昔は「空飛ぶ円盤」とも呼ばれていました。でも、円盤状だけでなくいろいろな形状のものがあったみたいで――葉巻型なんてあった気もします――いまではUFO(未確認飛行物体)という言い方が定着しているようです。  みなさんは、どんな形の物が空を飛んでいれば不気味に感じますか? いかにも定番っぽい円盤状、火の玉みたいな球状、あるいは葉巻とかウィンナーみたいな形、立方体、直方体、昇り龍や蛸やネズミみたいに生き物っぽい形――いろいろ考えられますね。  私は丸かったり球状のものには洗練を感じます。形として見事で美しいのです。あと、丸いものは広がるというか拡散する気がしてなりません。無限に大きくなっていくのではないかという怖さも感じます。固体や液体よりも気体をイメージしているのかもしれません。  輪っかとか丸いイメージは人を安心させます。ぐるぐるまわる――アナログの時計の針が円をえんえんとなぞりつづけているさまが好きです。ぴょっこり、あらまた、ぴょっこり――デジタルの時計の数字がなんどもなんども反復してあらわれるのもいいですね。時計は絶え間ない既視感の製造装置。えんえんとつづく既視感をともなう記憶。循環する日、週、月、年。 (私は時計やカレンダーは循環する思い出の製造装置ではないかと思っています。時計を生き物にたとえるなら、人は地球上の無数の時計と共生していているかのようです。でも、もし人が時計に依存する度合いが高いのであれば、ひょっとすると人は時計に寄生しているのかもしれませんね。これはすべての器械や機械や器具に言える気がします。)  いずれにせよ、時間と空間を直線ではなく、めぐりめぐる円環だとイメージすることで、人はずいぶん救われるし励まされもするのではないでしょうか。  一方で、長方形や立方体だと職人的な完成度を感じて、こんなのが空を飛んでいたら手強い気がします。人工的というか作為を感じるのです。長方形や楕円形だと知的な生物がつくって操縦しているのではないかと考えてしまい、やはり恐ろしいです。とはいえ、なにぶんにも、UFOらしきものを見たことがないので、空想はしますが現実味を覚えません。      *   個人的には、形よりも動きに注目したいです。動きのほうがリアルに怖さをイメージできそうな気がします。そもそも、動きのない顔よ...

夢のような映画、映画のような夢

 俯瞰とは場所つまり空間だけの話ではありません。時間的な俯瞰もあります。スケジュール表、タイムライン、カレンダー、年表などは、時間を見える化するだけでなく、時間の流れを時系列で視覚化する仕掛けとか仕組みとか装置だといえるでしょう。  地誌・地史、家系図、伝記、国の歴史、世界史、文学史、音楽史、科学史、宗教の歴史というぐあいに、個々の事象にまつわる出来事を時系列で記述しようとする人の試みと情熱には驚かされます。  図書館、博物館、美術館、博覧会も、それぞれが俯瞰の一形態だと見なすことができるでしょう。百科事典、辞書、図鑑、博物誌のたぐいも、空間(地球・宇宙)だけでなく時間(歴史・有史以前)の俯瞰を指向していますね。人の飽くなき意志と欲求に驚かされます。         *  俯瞰という身振りは、人が初めて水面に「かがみ」こんで自分の姿を見た身振り、そして鏡を作り毎日鏡に見入っているという身振りに重なります。自分を見ているつもり。でもその鏡像という似姿は自分ではないのです。  見えているのは自分ではなく自分の影、幻影なのです。さらに言うなら、そもそも人は自分を肉眼で見ることはできません。つまり、鏡のなかの似姿が自分と似ているのを自分で確かめる術はない。  ここに「見る・見える・見ない・見えない」の原点がある気がします。  個人的な話ですが、自分が自分では見えないことに気づいたり、思いだしたり、意識するのは、鏡を覗きこんだ時以外に、自分が見た夢を思いだす時と、テレビドラマや映画を見ている時です。話を簡単にするために、映画を例に取ります。         *  映画では主人公を含む登場人物がうつりますが、ある登場人物の視点から見られた場面は以外と少なく、その光景や状況やストーリーを分かりやすくするための位置にカメラが置かれて撮影されている気がします。よく考えると誰の視点から、そのシーンが撮られているのか不明になるのです。  居間でお茶を飲んでいる二人を撮った場面を想像してみてください。カメラは、その二人の視点以外の位置で撮られている場合が多いのではないでしょうか。高い位置から見下ろしてはいませんが、これは一種の「俯瞰」だと思います。  つまり、その状況を説明するのにふさわしい位置から、「展望」しているというか、全体の様子が分かるような絵になっているのです。現実では、まずあり...

やっぱり見えます。

  やっぱり見えます。人の顔です。似た人を知っています。何を見ているのかと申しますと、天井の染みなのです。二十年以上前から、そこにあります。何度見たか知れません。やっぱり見えます。見ないつもりでも、見てしまいます。  よく考えれば、テレビも、映画も、写真も、絵も、パソコンのモニターも、「「それ」そのもの」ではないにもかかわらず、「それ」を見てしまうという錯覚を利用したものです。でも、それは意図的にそうなっているのであって、不意に、出あってしまうという体験をしているわけではありません。  それなのに、出あってしまう。出あってしまった。出あってしまうだろう。出あってしまうかもしれない。そんなことがあります。人をやっている以上は、あります。何かに何かを見る。これって、人である限り仕方がないみたいです。ネガティブに、つまりマイナス思考で、とらえることはないのです。  たとえ、不意をつかれたとしても、正々堂々と出あってしまえばいいのです。  そういう体験の恥ずかしさや後ろめたさやかっこ悪さを、薄めるためのいい言葉、つまりおまじないの言葉があります。それは「あらわれる」です。 「○○が見える・ 見えた」の代わりに「○○があらわれる・あらわれた」と、するだけでいいのです。「見える・見えた」が自分の責任なのかどうかは、誰にも分からないと思いますが、とにかく責任を転嫁するのです。それだけで、だいぶ、気が楽になりませんか?   このように言葉は、ときとして人を助けたり救ってくれます。あの天井の染みのなかに見える人の顔は、「あらわれている」のだ。そう思うと、気持ちがいくぶん、やわらぎます。  ところが、同時にぞくっとくるのです。こっちに落ち度はない。責任はない。そこまではいいです。じゃあ、なぜ? でも、なぜ? なぜ、「あらわれる」の?  責任だか何だか分からないものを転嫁した、つまり押し付けたのはいいけれど、その「押し付けられたもの」 あるいは「押し付けたこと」が気になってくるのです。なぜ? どうしてなの? 何が起こって、そうなっているわけ?   こういうことは、深く考えることではなさそうです。考えてみても、いいことなど、これっぽっちもないみたいだからです。だから、安心してください。あなたに責任はありません。  あらわれるのです。

新聞紙

  自然界には名詞に相当するものがない。これを実感するためには「ごみ」という名詞について考えるといい。ごみは人工物だという考え方があるが、名詞も人工物にほかならないからだ。  朝配達されたものは新聞、読み終わると新聞紙。新聞紙はさらに古新聞と呼ばれるようになる。ごみとしてはできたてでありまだごみとは呼びにくい新聞紙も、古新聞になれば晴れてごみ扱いされる。  日本語が読めない人にとっては、コンビニで売られている新聞は新聞紙だろう。英語が得意ではない人にとっては、コンビニで日本語の新聞と並べられている英字新聞は新聞紙にちがいない。  新聞を読む習慣のない人にとっては、たとえそれが母語で書かれていていも、新聞紙なのかもしれない。まだ目を通してもいない新聞が新聞紙として扱われ、読む以外の目的で使われることは意外と多いのではないか。  まちがって同じ新聞が二部配達されたり、手違いにより売店で二部買ってしまった場合にも、一方は新聞紙として扱われるだろう。  新聞、新聞紙、古新聞。同じものであっても、時や場合や人によって見方が異なり、異なった呼び名で指ししめされる。それが名詞の本質なのだ。  いま二人の人がいて、その二人の前に新聞を印刷する工場で印刷された紙があるとすれば、その時点でその紙は新聞であったり新聞紙であったりする。  ごみも同じだ。ごみとは人にとってごみであったりなかったりする物であり、あるごみが別の人にとってはごみではなかったり、時間の経過やそれが置かれた場所によってもごみと呼ばれたりごみ以外の呼び名で指されたりすることはざらにあるだろう。  ごみはレッテルであり、名詞の本質はぺたぺた貼ることにある。何に貼っているのかは人には分らない。

ごみ

  ごみは人工物であり、ごみは人にとってごみとして存在する。赤瀬川原平が、そんな意味のことを言ったらしい。うろ覚えの言葉なのだが私なりに個人の意見として敷衍してみよう。  人間がごみなのだ。言葉とその意味に取り憑かれた人間が、消えていく言葉とその意味を形にし、さらには物体にしようとする行為が、「残す」である。人の残す行為と人の残した物、それを保存とか継承とか伝統とか文明とか文化とか遺跡とか遺産とか財産というふうに、人は呼んでいるわけだが、要するにごみだ。  ただし、これをごみと見なすことは人間的な心理ではないだろう。ましてそれをこうやって言葉にしたり、拡散するのは非人間的な行為だと人の端くれとして思う。タブーとまでは言わないが、やってはいけないことだという気がする。  でも、言わずにはいられない。人は自分が死んだあとも何かを残そうとする。そのために生きているように見える。子孫や家や土地や財産という目に見えたり触ったりできるものだけではなく、名前や業績や作品や言動を記した文書として、そしていまでは音声や映像として残そうとする。  こうした人の行為を責める人はほとんどいないにちがいない。自分を否定することになるからだ。そもそも残そうとする先人の意志があったからこそ生きている自分を否定するだけでなく、自分と自分の仲間と自分の親と祖先を糾弾することにもなりかねない。  でも、ごみなのだ。この星とこの星に住む生きものたち、そしてたぶん宇宙にとっては、人が残している物は、廃棄物どころか、不用物であり生きものとこの星に害をおよぼす危険物であるにちがいない。人のやっていることは不自然どころか反自然なのである。そこがサルとの決定的な違いだ。  ごみ学というものがあれば、人がこれまでやってきたことといまもやっていることの総決算になるだろう。とはいえ、ごみを見る人の目には死角がある。  人は宇宙にも自分たちと同じような「知性を持った」生命体がいると信じ、コンタクトを取ろうとしてごみを宇宙に放出したり発信しているらしいが、それは宇宙に人以外のごみがいると信じているからにほかならない。  しかも自分たちは例外であり、そのごみによってごみ扱いされないだろうという楽観に立っている。きわめて人間的な発想である。ごみとは人にしか見えないものでありながら、ごみにはごみは見えない。ごみが言っているのだか...